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@ryogishiki (http://mukushiki.blogspot.tw/2012/09/blog-post.html) 漢化翻譯
與 同意@mimora396 繁中轉換
隨著圍繞尖閣諸島(釣魚台)的爭端越來越激烈,中國許多書店開始撤下日本作家的書籍,作為日本作家之一,我當然也深感震驚。
目前還不知道這樣的行為是政府所主導有組織性地排斥還是書店自己回收書籍,所以我暫時還不想對此表示什麼意見。
最近二十年來,東亞地區最令人感到開心的一個成就,就是已經漸漸地形成了固有的「文化圈」。能夠形成這種情況,最大的原因應該是中、韓、台的經濟快速發展。
各國經濟系統更強勁地穩定下來,才有可能進行文化的等價交換,更多文化成果(知識產權)才能越過國境你來我往。
規定了通用的規則之後,曾經在這一地區猖獗的盜版行為漸漸消失(或者說是大量減少),預付款和版稅較多的時候也會正常支付了。
根據我自己的經驗來作總結的話,就是『能夠走到今天,這條路真的很漫長啊!』,以前的狀況就是那麼地糟糕的。
具體上有多糟糕,我在這裡就不列舉事實了(因為我不想再讓問題糾纏起來),最近的環境有了明顯的改善,「東亞文化圈」鄭在穩定地成長為豐富安定的市場。雖然還有幾個個別的問題殘留著,目前這個市場裡的音樂、文學、電影、電視節目都能夠基本地自由的等價交換,被更多的人取得、欣賞。這真的是個很棒的成果。
例如在韓劇一流行起來後,日本人對韓國文化更加親近了,學習韓語的人也在急遽增加。
大概算是一種交換行為,我在美國的大學期間,有許多韓國與中國留學生到辦公室來探望我。他們熱心地閱讀了我的書,熱心的嚇人,我們有許許多多事情可以談論。
為了製造這種正常情況,長年以來無數人傾注了心血。作為當事人之一,我雖然力量很微小,也在一直努力著,只要這種穩定的交流持續下去,就算一時還沒有頭緒,我國與東亞各國之間存在一些還沒解決的問題也總有一天應該能夠得到解決。
文化交換的一個重要目的是形成「雖然我們語言不同,卻同樣擁有感情與感動的人類」的認識,也就是跨越國與國之間進行靈魂的交流。
作為一個亞洲作家和日本人,我很擔心這一次尖閣諸島(釣魚台)和竹島的問題會對這些汗水的結晶造成巨大的破壞。
既然有國界的存在,領土的問題就是無法迴避的問題,這實在令人感到遺憾(說遺憾也不為過吧)。可是這是實際工作就能解決的問題,也是必須通過實際工作解決的問題。領土問題一旦越過了實際工作的問題,進入了國民感情的領域,往往就會出現沒有出口的危險狀況。就像喝了劣質的酒耍了酒瘋一樣,劣質酒不過幾杯就能把人灌醉、頭腦充血、嗓門變大、動作開始粗暴起來。理論越來越簡單,開始自說自話。不過喧鬧過後到了早上,就只剩下頭痛欲裂的感覺而已。
對於盡情散播劣質酒,煽動騷動的政治家與評論家,我們必須格外注意。
上世紀30年代的阿道夫‧希特勒能夠穩定政權基礎,也是因為他把施政的根本放在收回一戰時喪失的領土上。
後來的結果我們都知道了。這一次的尖閣諸島問題發展到如此嚴重的地步,原因也需要雙方之後冷靜地確認了。政治家和評論家們只要甩出威風凜凜的話語就能把人們煽動起來,然而實際受傷的卻是身在現場的每一個人。
我在小說「發條鳥年代記」中提到了1939年滿州國與蒙古之間的諾門罕戰役。
那一戰很短暫,但正是國界紛爭引起的激戰。日軍與蒙古聯軍激戰之後,雙方共有兩萬名士兵喪生了。
我寫小說時去了當地,佇立在散落的彈殼和遺物的茫茫荒野上,感受到強烈的無力感。「為什麼人們要為了這麼一片荒涼與空無一物的土地去進行毫無意義地撕殺呢?」
如我開始所說的,中國書店撤下日本作家的書籍一事,我沒有表達意見的立場。這只是中國國內的問題。
作為作家會為此感到非常遺憾,但我無能為力。我能夠明確說明的,就是千萬不要採取什麼報復行動。一旦如此,問題就落在了我們身上,給我們自己帶來影響。
相反的,如果能夠表現出「無論發生什麼事,我們都會對別國文化保持尊重」的冷靜姿態,我們才能獲得更重要的成果。
與喝了劣質酒的醉態剛好相反吧。
那種醉態總是會醒過來的。但靈魂的交流途徑是不能阻塞的。為了打開交流途徑,無數的人們在多年以來付出無盡的血汗。這條重要的途徑今後還要維持下去,無論發生什麼事,都得維持下去。
原文:
村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」
尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。 それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。
この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。 そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。 各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。 共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。
僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。 どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、 この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、 そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。
それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。 彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。
このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、 このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。 文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。
今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、 また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、 危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。 論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。
そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。
一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。
それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、 両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。
僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。 それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。 僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、 「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。
最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。 一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、 どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。 逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。 それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。
安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。
そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。